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第二話 消された名前

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-01 22:41:58

 チリン。

 鈴の音がした。

 イズミは椅子から立ち上がった。

「……いるの?」

 返事はない。

 事務所は静まり返っている。

 窓の外にも、白い狐の姿はなかった。

 イズミはもう一度パソコンを見る。

《第一話 白狐は、そこにいなかった》

 文字は消えていない。

 気味が悪い。

 だが、それ以上に引っかかることがあった。

「第一話……?」

 なぜ、第一話なのか。

 これではまるで。

 自分が今日一日経験した出来事が、何かの物語であるかのようだった。

「くだらない」

 誰かの悪戯だ。

 そう考えることにした。

 イズミは文章を選択し、削除キーを押す。

 消えた。

「……ほら」

 当然だ。

 怪異でも何でもない。

 そう思った直後だった。

《ミナを忘れないで》

 画面に文字が現れた。

 イズミの指が止まる。

「……ミナ」

 今日、依頼人から聞いた娘の名前。

 イズミは机の上の手帳を開いた。

 依頼人。

 住所。

 相談内容。

 そして娘の名前を書いた欄。

「え……?」

 空白だった。

 確かに書いた。

 依頼人の目の前で。

 ミナ。

 カタカナで二文字。

 それが消えている。

 イズミはボールペンを握った。

 空白に書く。

『ミナ』

 目を離さない。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 何も起こらない。

「疲れてるだけ」

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 そのときスマートフォンが鳴った。

 タカオミからだった。

「もしもし」

『イズミさん。まだ事務所?』

「いるけど」

『今日の依頼人の件なんだけどさ』

 タカオミの声が妙に硬い。

「何かわかった?」

『それが……誰だっけ』

「は?」

『今日、俺たち何の調査に行ったんだっけ』

 イズミは言葉を失った。

「何言ってるの?」

『いや、覚えてるんだよ。イズミさんと雑木林に行ったことは。でも理由が思い出せない』

「消えた家を調べに行ったでしょ」

『消えた家?』

「娘さんが住んでいた家。依頼人が――」

 そこまで言って、イズミは止まった。

 依頼人の名前。

 何だった?

「……待って」

 手帳を見る。

 依頼人の名前を書いた欄まで、空白になっていた。

『イズミさん?』

「タカオミ。今日、石の鳥居を見たことは覚えてる?」

 沈黙。

『鳥居?』

「雑木林にあったでしょ」

『なかったよ』

 背中が冷たくなった。

「白い狐は?」

『それ、さっきも言ってたけど……』

 タカオミは困ったように笑った。

『本当に狐なんかいた?』

 イズミは電話を切った。

 机の上を見る。

 手帳には、まだ『ミナ』の二文字がある。

「……消えないで」

 自分でも誰に言っているのかわからなかった。

 イズミはスマートフォンを手に取り、昼間に撮影した写真を開いた。

 雑木林。

 途切れた道。

 木々。

 何枚めくっても石の鳥居は写っていない。

 やはり、自分の記憶がおかしいのか。

 最後の一枚を開いた。

「……!」

 白い狐が写っていた。

 鳥居はない。

 何もない雑木林の中央に、白狐だけが座っている。

 こちらを見ていた。

「チョコ……?」

 イズミの口から、知らない名前がこぼれた。

 息を呑む。

「……誰?」

 なぜ今、自分はその名前を知っていた?

 写真の白狐の首には藤色の組紐。

 小さな鈴。

 画像を拡大する。

 その背後。

 木々の間に、人影があった。

 女だった。

 顔は白く潰れていて見えない。

 イズミはさらに拡大した。

 女が何かを持っている。

 本だ。

 表紙に文字がある。

 画像が荒く、ほとんど読めない。

 それでも、一つだけ判別できた。

 大きなアルファベット。

《FICTION》

「……フィクション?」

 その瞬間、机の上で音がした。

 イズミが振り向く。

 手帳。

 さっき自分で書いたはずの『ミナ』が消えていた。

「嘘……」

 代わりに、別の文章が浮かび上がっていた。

《忘れられた人間は、最初から存在しなかったことになる》

 イズミは震える手で、その下に大きく書いた。

『ミナ』

 もう一度書く。

『ミナ』

 さらに書く。

『ミナ』

 ページいっぱいに。

 消されるたびに、何度でも。

「いた」

 イズミはペンを握りしめた。

「あの人には娘がいた」

 文字が薄くなる。

「ミナはいた」

 また書く。

「絶対に忘れない」

 そのとき。

 スマートフォンの画面が勝手に点灯した。

 昼間の写真が表示される。

 白狐がいたはずの場所。

 そこにはもう、何もいなかった。

 ただ画面の中央に、一文だけが表示されていた。

《第二話 消された名前》

 そして、その下に。

《次は、あなたの番》

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